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日本のアニメーション研究
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国産商業アニメーション映画第一号に関する調査レポート 2017/01/01 中間報告

調査報告作成者: 渡辺 泰、大徳哲雄、木村智哉

調査チーム: 渡辺 泰、大徳哲雄、木村智哉、笠井修、神北恵太、山脇壮介、檜山大悟

調査目的

 日本において常設映画館でアニメーション映画が興行されたのは、1917(大正6)年のこととされ、したがって2017年はそれから100周年の年にあたる。本調査は、この1917年に公開された作品のうち、第一作となる作品と、その封切日を特定し、プロジェクト『アニメNEXT_100』の起点を、より一層確かなものとして定めるために行うものである。

これまでの研究成果

 日本におけるアニメーション史の古典的著作『日本アニメーション映画史』(有文社、1977年)では、国産アニメーション映画の創始者を以下の3人に特定し、風刺漫画家の下川凹天と幸内純一、そして画家であり美術雑誌『現代の洋画』発行者の北山清太郎の業績をまとめている。  その後、同書の著者の一人であった渡辺泰を始めとした諸研究者の手により、北山の『猿蟹合戦 猿と蟹』が5月20日に浅草のオペラ館で、幸内純一の『なまくら刀(塙凹内名刀之巻)』が6月30日に浅草の帝国館で封切られたことがつきとめられた。また、これらの作品に先んじて、下川凹天の作品が浅草のキネマ倶楽部で封切られていることが確認されている。同館は天活(天然色活動写真株式会社)直営の洋画封切館であり、輸入された海外製短編アニメーションが興行されていたから、そうした観客需要を鑑みてのことではないかと考えられよう。

 既に『日本アニメーション映画史』では、雑誌『映画評論』1934年7月号に掲載された下川の回想「日本最初の漫画映画製作の思ひ出」から、天活との契約の上で制作した作品についての以下のような一節を引用していた。

第一回作品『芋川椋三玄関番の巻』他二本はキネマ倶楽部で封切されました。

したがって長らく、日本で劇場公開されたアニメーション映画の第一号は、この『芋川椋三 玄関番の巻』であると考えられてきた。しかしながら2013年7月8日の『毎日新聞』夕刊記事によれば、ドイツのバイエルン州立図書館研究員フレディ・リッテンが、『芋川椋三 玄関番の巻』の公開は4月であり、2月初旬に『凸坊新画帖 名案の失敗』がキネマ倶楽部で公開されていたことを発見している。なお「凸坊新画帖」は従来、海外から輸入された描画アニメーション映画全般を指した言葉で、特定のシリーズやキャラクターを意味するものではない。

 先の下川の回想に戻るならば、第一回作品は「『芋川椋三玄関番の巻』他二本」と記されていた。これは下川の記憶違いであるか、あるいは完成順を示したものであって、ほぼ同時に完成した他の作品が、先に封切られていてもおかしくはない。したがって、1917年中、特に1~2月のうちに封切られた「凸坊新画帖」と、その封切日を特定することができれば、所期の目的は達成しうると考えられた。

本調査の中間的成果

 2016年12月末日までの調査成果では、まず下川の『凸坊新画帖 名案の失敗』の公開が確かに2月、キネマ倶楽部で行われた記録を、雑誌『キネマレコード』にて確認した。これによってリッテンの研究成果は、本調査チームによっても裏付けられたと言える。

 さらに本調査チームは、映画関係の広告が連日掲載される『都新聞』の調査を行ったが、下川作品と思しき広告を発見することはできなかった。これは、キネマ倶楽部が従来は洋画の封切館であり、そのメインプログラムもまた長編の洋画であることから、国産第一号であっても短編であるアニメーション映画は、メインの宣材とはみなされなかったからではないかと考えられる。

 次に本チームは、映画雑誌の調査を行い、『活動写真雑誌』1917年3月号「フィルム一覧」の「日本物」の項に、一月中の封切作品として以下のような記述を発見した。

▲滑稽「凸坊新画帖、芋助猪狩の巻」一巻(天活東京派撮影) 欧米の所謂凸坊新画帖式のトリツク応用滑稽線画を研究して、我邦で最初の試みとして成功せるものか。(キネマ倶楽部)。

 下川の名前こそ記述されていないものの、浅草のキネマ倶楽部が封切館であり、また天活の作品であることが明記されていること、また断定はされていないものの「我邦で最初の試みとして成功せるものか」との記述があることから、『凸坊新画帖 芋助猪狩の巻』が下川最初の封切作品の記録である可能性は極めて高いと考えられる。

 なお残念ながら、この記述からは封切日を特定するには至らなかった。先述のように、当時未だ新興の短編映画の一つにすぎなかったアニメーション映画は、国産作品とはいえ、大きな注目を集めるものではなかったと思われ、その上映記録や宣伝から追跡することには、限界があると言えるかもしれない。したがって今後は、新聞・雑誌等の調査を続けながら、それとは異なる視点からの追跡、すなわち本作が封切られた浅草の興行に関する調査、また本作を製作・配給・興行した、天活側の資料の捜索など、多岐にわたるアプローチを試みて、引き続き日程の特定にまで至りたい。

“第一号”の定義

 なお、この下川作品を国産商業アニメーション映画第一号とし、1917年を日本におけるアニメーション産業の起点とする根拠についても記しておきたい。というのも、「ことから、それよりも時期を遡るか、あるいはくだった時点を起点と考えた方がよいとの見解もあり得るからである。

 もとより「アニメーション」の定義自体が複雑であり、世界的に見ても、アニメーションの創始自体、1892年のエミール・レイノーの「テアトル・オプティーク」公開を起点とする、ASIFA(国際アニメーションフィルム協会)による定義をはじめとして、いくつかの見解がある。これは芸術、技術、産業、そして知覚など、様々な要素が結合して構成されている「アニメーション」という領域の複雑さの表れの一端でもあり、一挙に統一した定義を確立することは困難である。

 事実、先述のリッテンは、Animationsfilm in Japan bis 1917: Die Anfaenge des Anime und seine westlichen Wurzeln, Books on Demand, 2016 にて、1917年以前の「アニメーションフィルム」について言及しているようである。同書はドイツ語文献であり、英訳ないし邦訳が存在しないため、現状では本調査チームは講読できてないが、その概要の邦訳からは、リッテンが言及したフィルムの一つは、「玩具映画」収集を行ってきた映画研究者の松本夏樹が2005年に発見した、いわゆる「活動写真」フィルムであることが分かる。

 松本が発見した「活動写真」フィルムは、透明セルロイド製フィルムへ直接に合羽摺を施した、ごく短いループフィルムで、通常の映画とは異なっているため、その後のアニメーション映画との技術的連続性はなかろうと考えられている。松本によればこの「活動写真」フィルムは、巡回興行の済んだフィルムを短く切断・編集して、家庭用に簡易映写機とセットで販売した「玩具映画」の一つであり、またその年代は、映写機やフィルムの形態などから明治末期ではないかとされている。

 『アニメNEXT_100』を主催する日本動画協会は、我が国アニメーション製作業界の関連各社からなる団体であり、またその設立目的には「アニメーション産業全体の持続的発展」をうたっている。したがって協会のプロジェクトとしては、産業史的な観点をとることが適切であり、それによるならばこれらの作品を、日本におけるアニメーション産業の起点と見ることは難しいと思われる。

 先に松本が分析していたように、こうしたループフィルムは、巡回興行が済んだ後に売却されたものと考えられる。その点では「商用」であり、「商業アニメーション」としての側面を持っているかもしれない。

 しかし映画史を紐解くならば、常設映画館の増加とともに、映画は巡回興行師の消耗品としての選択的コンテンツの一つから、一定の安定した市場を持ち、そこに定期的に投下される作品へと、その商品としての位置づけを変化させたと考えられる。実際、日本映画史の古典的著作である、田中純一郎『日本映画発達史』でも、映画製作スタジオの設立は、常設館の増加と関連付けて述べられている。

 この側面から考えるならば、天活が下川へ国産「凸坊新画帖」の制作を持ち掛け、自社直営のキネマ倶楽部で封切った流れは、すなわち製作・配給・興行の垂直統合による市場の意識化と、それに基づくイノベーションや自社製コンテンツの多角化への志向を思わせるものがある。ちょうど田中純一郎は前掲書にて、以下のように論じている。

浮草のような興行者が、僅かのフィルムを持って、旅から旅へ巡回興行をして歩いたことは、活動写真趣味の普及に多大の効果があったが、それでこの事業の基礎が定まったわけではない。いまや、真にこの事業の前途に希望を持ち、投資と研究と、資材の生産に努力を惜しまぬ、企業家の出現にまたねばならない。

 天活をはじめとする各社と、三人の国産アニメーションの創始者の関係とは、まさにこれに当てはまるものであろう。アニメーションの製作/制作者の営みと興行市場における利益とが直結しておらず、興行師の手によって随時、巡回上映ないし販売された時代の作品ではなく、映画製作をも行う企業であった天活直営の常設館において興行されたアニメーション作品こそが、日本におけるアニメーション産業確立へ向けた持続的な動きの起点としては、より相応しいものと考えられるのである。こうした理由から本調査においては、下川作品の第一作と、その封切日の特定をもって、日本における商業アニメーション映画の第一作と位置付けるものとしたい。

以上
(敬称略)

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